さて、どうする?

二児の父が考えた子育て方針の備忘録。父親目線で育児について気づいた事を書いてます。

読書感想文が死ぬほど苦手だった話

読書感想文。

小学校時代を思い出す懐かしい響き。

そして、どちらかと言えば苦い思い出。

 

私はあれがどうも苦手でして。

何がって、感想文を書く事がです。

というか「感想を他人に伝える」事が非常に苦手でして。50分も悩んでたった3行しか書けない、というザマでした。

というか、今でも苦手ですけど。

 

小・中学生のコンクール優秀作品などを読むと、とても分かりやすい説明で、かつ自分の主張も取り入れており、感心しきりです。大変頭の良いお子さんですねぇ、と唸ってしまいます。

 

 読書感想文全国コンクール公式サイト

 

読書感想文とはザックリといえば、最低限下記の点を他人にも分かりやすくまとめることだと考えていますが、通常学校で課題を仕上げるであろう1時限(50分)程度の時間では、私には到底まとめ上げる事が出来ないのです。

1.この作品から自分は何を感じたのか?

2.なぜそう感じたのか?

 

これが私には大変高度に感じるのです。

恐らく、感想文が得意な人には全く想像も付かないと思いますが…

 

まず1点目ですが、1冊の本を読んだからには数多くの感じる事があるでしょう。その中から、特に重要な事をピックアップして説明する必要があります。

しかし、一つの内容を取捨選択する事が出来ません。例えば物語であれば、導入部分から発展、オチまでの全てが重要です。起承転結の構成要素からその一部だけを取り上げる事は、物語を自分の感性に従って歪曲してしまうような気がして出来ないのです。

物語の最も盛り上がる部分だけを取り上げる場合には、その前提となる導入部も説明しないと気が済まず、その結果、脳内で整理が出来なくなり、原稿用紙上にまとめる事が出来なくなります。

 

2点目ですが、そもそも私には感想を誰かに伝えたいというモチベーションが有りませんでした。伝えてどうするのかと思っていました。

自分がまとめ下手であり、うまく伝えられないのは重々分かっており、誤解されるくらいなら伝えない方が良いという消極的な考えに至ってます。

自分の感じた事を誰かに伝える楽しさがわからない。これは自分でも非常に残念です。

 

優秀作品を見ると、本の内容と自分の体験を重ねる事で、何故そのような感想を持つに至ったかを説明する事が多いようです。

しかし、私にはそんな大それた経験など無く、たとえば「挫折を乗り越えた経験」や「親類の不幸(死)」などを扱った感想文を見ると「あ〜あ、うちも誰か死んでれば書けるのになあ」などと不謹慎な事を夢想したりしたものです。

 

そもそも、上記を満足に出来る子はそれほど多くはないのではないでしょうか?

読書感想文はかなり頭脳を使う科目でありますが、学校で方法論を教える事もなく(教える教師もいると思いますが)、実力差の現れる科目だとも思います。

学校で感想文の書き方など習った記憶が無いのですが、基本的な文章構成の仕方くらいは教えて欲しかったです。そうすれば少しは好きになったかも知れないのに… 

 

近い将来、子供が小学校に入り感想文の書き方に悩んだ場合に、教えてあげられるようにもう少し文章力をあげておきたいと思います。

 

読書感想文全国コンクール公式サイトのQAによると、感想文を書くコツは次のようです。以下に引用させて頂きます。

「本を読んで自分がどこに感動したのか、なぜ感動したのかを考えましょう。そしてもう一度本を読んでみましょう。自分の生き方や経験と本の世界とを照らし合わせると、いろいろなことが見えてきます。感じたこと、思ったこと、連想したことなどを忘れないうちに全部メモしておきましょう。そうしたら、順番を入れ替えたり内容を補ったりして、どう書けば自分の心の動きにぴったりするか、それがうまく人に伝わるかを考えましょう。先生や家の人と相談してみるのもいいでしょう。そうするうちに何をどう書けばいいのか、自分が一番言いたいことは何なのかがはっきりしてきます。書き終わった時には、それまでとはどこか少し違った自分になっていることに気づくはずです。」

 

 なるほど、コツとしては下記みたいですね。

・本は2回以上読む

・感想はすぐさま付箋などにメモする

・メモした感想を、順番を入れ替えたり、内容を補ったりする

・一番言いたい事は何かを探る

・他人にも相談すること。

 

本を1回読んだだけで真っ白な原稿用紙に向き合ってうんうん唸っていた、子供の頃の自分に聞かせてあげたいです。

あと、やっぱりメモは大切ですよね。

子供の遊びにいかに付き合うか

子供ができたら毎日の生活が刺激的になる‥...

そんな風に考えていた時期が私にもありました。


実際にはだいぶマンネリ化してしまいます。毎日が同じことの繰り返しです。

毎日同じことを注意して、同じ遊びをして、同じ時間に寝て、同じ時間に起きて…

普段は会社に出かけている父親すらそう感じるのですから、常時子供と接する母親の立場を考えると頭が上がりません。

 

子供の遊びに付き合うのは一見楽しそうですが、気に入った事をひたすら何度も何度も繰り返し求められます。たとえば、なんの工夫もないただのジャンケンとか、抱っこして回転するとか、頭に布を乗せてから落とす(なぜかこれだけで子供は爆笑します)とか、相撲を取るとか、をひたすら満足するまで何度も何度も付き合わされます。

 

まあ、普段やらない行動ばかりなので、最初は少し刺激的ですが、何十回も繰り返し要求されると大人としてはうんざりです。 何かしら進化を感じさせるモノがあれば良いけど、大抵の場合は全く同じことの繰り返しです。

とはいえ、子供の前でウンザリした顔を見せる訳にはいきません。楽しそうに遊ぶ姿を見せなければなりません。「ほーら、さっきより多く回しちゃうぞ〜」なんて言ったりして。心の中では飽き飽きしてるのですが。

ただでさえ肉体的に疲れるのに、心を偽るという事が、結構な精神的ダメージを与えてくれます。


なんというか、平坦な針の道を歩くのが、最初は刺激があったけど、すぐに足の裏の皮が厚くなって平気になり、同じ風景がひたすら続くただの平坦な道になった。みたいな感じ。

 


変化が無いこと。

 

きっとそれが、子供から見たら良い事なのだと思います。

何も変わらないから、全て予想できる範囲内だから、安心して思いっきり楽しめる。

大人の都合で、子供が理解出来ない範囲へ誘い出す事は避けたいと思っています。大人が良かれと思った事でも、子供にとってはやりたくない事もある。

きっとうちの子達はディズニーランドへ連れて行ったとしても、きっとアトラクションには乗らずに、花壇とか銅像とかに登って大半を過ごすでしょう。

でも、せっかく入場料払ったからという理由で無理やりアトラクションに載せる事は出来るだけ避けたいと思う。

 

でもその一方で悩んでしまうのは、多少は親が主導してチャレンジもさせるのも、それはそれでアリだと思う事。

もしかしたら、楽しいと感じてくれるかも知れない。新しい遊びをするときなどは、最初はやりたくないとギャンギャン泣いていても、慣れると笑顔で楽しんだりする。

新たな扉を開くのも親の仕事のひとつだとも思います。

 

その辺のバランスが難しい。

子供にはじめて怒られた日

タイトル通りですが、先日はじめて子供に怒られました。子供とは上の娘のことで、その時点での年齢は3歳5ヶ月と29日でした。

(後で忘れそうなので細かく記録しておく)

 

事件がおきたのは夕飯時でした。

 

娘は食べる量やスピードにムラがあり、日によって沢山食べたり、食べなかったり、途中でデザートを要求したり、一旦離席してからまた食べ始めたりします。

その時は席には付いていたものの、食事にほとんど手をつけずにテレビを見たりしていて、なかなか食事が進みません。

 

当然、私と妻は早々に食べ終わってしまい、妻は食べ終わった食器を片付けに台所へ向かいました。1歳の弟くんすらも食べ終わってTVに齧り付いてます(近過ぎる)。

私は娘の食事をまんじりともせず、ただ待っているという状況でした。

 

子供の食事が思うようにならないのは、どこの家庭でも共通の悩みだと思います。

食べるなら食べる、食べないなら食べないでハッキリして欲しいのですが、時々思い出すように食べてはまた止まるので、食事を下げるタイミングがありません。可能な限り少しでも多く食べて欲しいですからね。

 

しかし待たされている身としては、イライラは募るばかりです。席を立とうかと思いましたが、さすがに娘を独り食卓に残すのは寂し過ぎます。

 

そこで私は「ヘッヘ〜イ、早く食べて一緒に遊ぼうぜ〜」とクネクネ腰を振って踊ったのです。いい歳の大人が腰に手を当てクネクネと!私は娘が笑ってくれるのを期待していました。

 

すると、返ってきた次の言葉。

「お父さん踊ってないで早く座りなさい!」

 

一種の静寂が辺りを包みました。

娘の言うことは正しい。完全に。

今はまだ食事中なのだ。俺は一体、何を馬鹿な踊りを踊っているんだ…?

 

そう思うととても恥ずかしくなりました。

3歳の娘に叱られるなんて…しかもぐうの音も出ないほどの正論で…

 

と同時に、娘の精神的な成長が感じられて、嬉しいのも事実でした。というか、そっちの方がだいぶ嬉しいです。

娘よ、お前も言うようになったなぁ。と。

この事は私の密かな記念日として記録する事にします。

 

今回、成長が感じられたのは以下の点です。

・今は食事中だから踊る時ではないと理解している

・適切な行動は座る事だと理解している

・「〜しなさい!」という、今まで言う事の無かった上から目線言葉の習得(どこで覚えたの?)

 

逆にまだまだ出来てない事。特に2番目が!

・自分が原因である事を分かってない

・親が多少恥ずかしい事をしている事に対する気遣いが無い

 

なお、食事はほとんど手を付けずに残しましたとさ。(この後スタッフが美味しく頂きました)

子供が期待通りに学習してくれない!?

子供はスポンジが水を吸う様に何でも学習する。
子供は学習スピードが早い。

 

と良く言われますが、実際に子育てをしてみると、そんなことはありません。

学習して成果が出るまでにはディレイ(遅延)があるのです。

 

■言葉が遅れたうちの子の場合

 

うちの子の場合、2歳後半まではろくに言葉も喋れませんでした。
標準的には二語文も話せる月齢のはずですが、そのレベルには程遠く、簡単な単語を10個程度言えるというレベルです。
(一般的には単語なら100個以上は言えるはずです。)

 

この子は大丈夫かとハラハラさせてくれました。

 

海苔が大好物なので、言葉の練習として「のり」と言えたら一枚あげる、という事をしました。
「の」、「り」ですから単語としてはかなり簡単なレベルですよね。

 

しかし、その二文字が全く言えません。他の子は二文字どころか二語文すらペラペラだというのに…

 

一文字ずつ教えます。
私「の」
娘「の!」

私「り」
娘「り!」

私「のり」
娘「…?」

 

なんで言えないねん!?

 

一文字ずつなら発音できているので、あとは繋げるだけなのに…

何か原因があるのか、それとも娘の気分の問題なのか、どうしたら良いのか全く分かりませんでした。

 

言えなくてもある程度練習したら海苔をあげていたのですが、言えなくても貰えるものと学習してしまったのか!?
ここは厳しくした方が良いのだろうか?
そもそも物で釣る事自体が良く無いのか?

 

何日か同じ事を続けても全く出来る様にはならず、大丈夫かこの子は!?と絶望的な気持ちになりました。

 

やがてご褒美用の海苔も尽きてしまい、効果も感じられなかったため、この練習は自然にやらなくなってしまいました。

 


しかし、練習をやめてしばらくした後、娘はいつの間にやら「のり」を普通に言える様になっていました。
しかも「のりちょーだい」とまで!

 

いつから言える様になったのか、何がキッカケだったのか分かりません。

 

■言葉に出来ない彼女だけの『理由』


あの練習の中で「食べると美味しい黒いヒラヒラしたもの」が「のり」である事は、認識していたと思います。

こちらが「海苔あげる」というと、嬉しそうに海苔の缶を持って来るからです。

 

練習で「の」と「り」を単独では言えていたので、発音も問題無い事は確認できていました。
(もし、ここで問題が見つかった場合は病院に相談する必要があります。)

 

しかし、何らかの理由で言葉として発することは出来なかった。

娘の頭の中で障害となっている「何か」があったのでしょう。 


大人には、というか他人には決して理解出来ない、彼女だけの「何か」です。

 

■果報は寝て待て
 

発音と認識は出来ていたので、あとは娘の中で障害となっている「何か」を乗り越えるだけでした。

 

そこは他人にはどうにも出来ない領域なので、ある程度の反復練習を重ねたら、あとは成果が出るのを待つだけで良かったのです。


もしかすると、子供の成長が思い通りでないと我慢出来ずに罰(体罰に限らず)を与える親もいるかもしれません。

 

しかし最低限の確認と、必要なインプットを与えたら、あとは子供を信じて待ってみるのが良いと思います。

 

大人が焦ったり、叱ったりしたら逆効果になりかねません。果報は寝て待ちましょう。

 

 

ちなみに娘ですが、3歳になってからとつぜん学習スピードが急上昇し、それこそスポンジが水を吸う様に色々な事を吸収しています。

 

まだまだ人並みに、とは言えませんがかなり喋る様になりました。
毎日うるさくて、ほとんど話せなかった去年の今頃が懐かしいです(汗)


今日のポイント
•子供の学習には個人差がある。親が思う様には理解してくれなくても、がっかりしない様に。


•最低限のポイントを確認して、必要なインプットを与えたら、しばらく待つことも大事。

「忘れる力」を舐めるな、メモをとれ!

私はとても忘れっぽいです。

 

メモを書かずに買い物に行って、何を買うのか忘れてしまい、余計なお菓子を買って散財するなんて日常茶飯事です。

 

改善のために買い物メモを書いても、そのメモを家に忘れてしまいます(汗

 

普段の生活で仕事の良いアイデアや、次の週末に行きたいスポットを思いついたとしても、かなりの確率で忘れてしまいます。思い出すころには不必要になっていることが多いです。

 

 

100円均一ショップに行くと、何か買うものがあった気がするが思い出せず、不安になることはありませんか? 私はこれを「100均病」と呼んでいます。

100円均一ショップで何か買うものがあったはずだ!?と店内をウロウロしても思い出せず、帰ったあとで思い出して悔しい思いをする。または結局、何も買う必要はなく、無駄な悩みに終わるというものです。

 

 

思いついたことを、その場で実行せずに「後で」やろうとして、とりあえず元の行動に戻どる場合に忘れてしまうことが多いです。

おそらく脳の海馬が「重要じゃない単なる思いつき」だと判断して、脳に記憶させていないのだと思います。

 

そんなわけで、私は最近になって、ようやく「思いついたらその場で即時メモを取る」ことを始めました。

 

街の意見
メモを取るって、、、今さらそんなこと?

 

まあ、スマホで気軽に手書きや写真でメモして、かつ複数デバイスで共有できるようになったのはここ数年のことですからね。几帳面な人は紙のメモ帳を持ち歩いていたでしょうが、私はそんなにマメではありません。

 

街の意見
でも、脳が忘れるということは、やっぱり重要な情報ではないんじゃない? 本当に必要なことなら脳は覚えていられるはずだよ。

 

以前は、私もそう思ってたんですけどね。

人間の「忘れる力」は結構強力だと思いますよ。

例えば、肉親が死んだ場合、特に配偶者や子供が死んでしまった場合でも、人間はいずれは立ち直れるようにできています。

当初は本人も死ぬくらいのショックを受けるでしょうが、次第にそのショックは脳内から薄れていき、徐々に普段の生活に戻ることができるのです。

もちろん、死そのものを忘れるわけではありませんが。

 

これは「忘れる力」のなせる業だと思います。というか、そうでなければ人間ショックから立ち直れません。

 

つまり「死」ほどの出来事でも、時間がたてば忘れてしまうということです。

いくら重要な情報でも忘れるときは忘れるのです。

確実に覚えていると保証できることなどありません。

 

メモを取ることで、過去の経験から学んだことの積み重ねがとても捗ります。若いうちからメモ帳を持っていたら人生変わっていたかもな、と思うくらいです。

 

 

メモを取り始めてからは溜まる一方で、逆にアウトプット先に困ることになってしまいました。それでこのブログに吐き出すことにしたわけです。それがこのブログを始めたきっかけです。

 

正直言って、ブログを更新するペースよりもメモが溜まるペースの方が早いです。

ブログのネタにはしばらく困りませんが、書く時間が無い。。。

 

今日のポイント

・人間は死でさえも忘れることができる生き物である。忘れたくない事はメモを取ろう!

・突然の思いつきをメモするなら、次の行動を起こす前に書き留めろ。後でメモしようとすると忘れるぞ!!

愚者は経験に学ぶ?

賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶ

 
ドイツ帝国「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクの言葉と言われています。
 
自ら体験したことから学ぶだけではなく、歴史からも学ぶのが賢者だ、ということでしょうか。
 
これをひねくれて受け取ってしまうと、「我々は歴史から多くを学ぶべきだ!実体験からしか学ばないなんてアホのやる事だ!」などと考えてしまうかもしれません。
 
もっとひねくれると、「実体験よりも歴史が重要だ!」と受け取ってしまうかもしれません。
 
 
はい、私です。相変わらずイタイですね。
 
もしかしたら、この言葉を盾にして面倒なことを経験するのを避けていたのかもしれません。 
 
 
でも、それで良いわけないですよね。むしろ実体験の方が重要でしょう。
 
歴史から学べるのは普遍的な事実だけだと思います。
過去と現在では状況が違いますし、歴史上の出来事と全く同じ事なんて起こりますかね?
 
そもそも、我々が真実の歴史を知るのは不可能だと思います。
書籍やTV番組で歴史を勉強したとしても必ず作成者のバイアスがかかっているわけで、それを真実を思い込んでしまうのは危険でしょう。
「勝てば官軍」という言葉があるように、時代の勝者が都合の良いように歴史を作り上げるのです。
 
ましてや歴史上に導かれた結果が、自分にそのまま当てはまるかなんてわかりません。
もし「自分の考えとは違うな」と思ったとしても、歴史を妄信して自分の意に沿わない考えを貫いてしまうと、かえって良くない状況になります。
 
自分の心に耳を傾け、自分の意見を尊重して、その結果失敗したとしてもそれを検証して改善していくのが正しい道かと思います。
 
 
賢者は歴史に「も」学ぶ、くらいでちょうど良いのではないでしょうか。
 
今日のポイント
・「賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶ」は名言だが、実体験を大切にしよう。

若いころから失敗して経験値を貯めさせよう

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と言う言葉があります。

 

言わずと知れた名言ですが、私自身が中学生だったころは、この言葉は

「汚れた大人が若者をこき使うための嘘っぱち」

だと思っていました。

  

街の意見
あんた、どんだけひねくれた子供だったんだ……

 

ま、まぁ(汗

とにかく当時は、失敗なんて出来るだけ避けた方が良いじゃん!?

若い頃にわざわざ好んで苦労をしなくても、どうせ将来は嫌でも苦労はするんだから、トータルで苦労を少なくした方が人生お得じゃん!?

と、本気で思っていました。

 

まあ、あながち間違いでも無いですが…

徹底的に苦労を回避する人生も、もちろん有りだと思います。ただし、回避すればするほど、のちの人生にリスクを貯めこむことになりますが・・・

 

いつか大きな問題にぶちあたった時には、それまでに様々な問題を乗り越えた経験があれば、どう対処すれば良いかを自分で判断することが出来ます。

そうでなければ、問題に直撃して打ちのめされるか、逃げるしかありません。

 

もし、その時点でそれなりに年齢を重ねていると、抱えている責任が大きくなります。例えば仕事では部下を抱えていたり、家庭では配偶者や子供がいる場合などです。その場合、受けるダメージは若いころの比ではありません。

特に問題なのは、責任が大きければ大きいほど、周りの多くの人を巻き込むことです。防波堤になるべき上司や親が、重要な局面でアワアワしていたら困りますよね。

 

若いころにそのような責任が無いので、経験を貯めるにはうってつけの時期というわけです。いくら失敗しても本人と親が困るだけです。

また、経験を貯め始める時期は、早ければ早いほど良いでしょう。当たり前ですが、早いほど経験の総量は大きくなりますからね。

 

ただし、親が無理やり経験させるのは注意したほうが良いでしょう。「親から苦労を強制される」というネガティブな経験により、逆に苦労を避けるようになってしまうかもしれません。

自発的に失敗させるためには、子供の行動にたいして親がつべこべ言わないことでしょうね。普段から子供に安心して失敗させるような態度で接するのが良いと思います。

 

私の若いころは「経験を貯める」と言う概念(そんな大層なものでは無いですが)については、ほとんど意識していませんでした。

ある意味、そんなことは気にしなくても何とかなるさ、という若者特有の根拠なき自信というか楽観さがあったのだと思います。

若いころからの少しの挑戦、苦労の積み重ねが、結果として大きな力になる事を今さら噛み締めています。

 

今日のポイント

・責任の少ない若いころから、いろいろな失敗をして経験値を貯めさせよう。

・経験を貯めるのは、早ければ早いほうが良い。

・子供が安心して失敗できる態度で接しよう。