他愛もないコラム(その5)
他愛もないコラム(その4)
テレビのCMで流れている「仕事がデキル人」のイメージが古すぎると思う。栄養ドリンクとか薬のCMで良く見られます。
「有能な上司が、手をまるで千手観音像のように残像を残して高速で動かし、机に高く積まれた大量の書類を処理する。そしてそれに惚れ込む女性社員。」的なヤツです。
こういうの。
ほとんどの視聴者は苦笑しているのではないでしょうか?今だにそのイメージなのかと。
何故、このようなCMが存在するのか?時代の流れに敏感な(でなきゃいけない)CMプランナーがそんなイメージを持っているとは思えません。
発注側の担当者の受けを狙った?確かに商品の効果を表すイメージ映像としては派手でわかりやすいです。「わかりやすさ」というのはCMでは何よりも重要なのではないかと想像します。たとえウソ、大げさ、紛らわしい、そんなCMになったとしても!!
このようなあまりにも時代遅れなCMばかりだと進歩が無いですよね。単に今までの慣習に従っただけというか…いわゆる「安全パイ」に乗っかっただけ。に見えます。
同じようなパターンとしては、
- 妻が夫に対して皮肉めいた悪口を言い、主婦層の共感を誘うCM
- 誰もしないような馬鹿っぽいミスをして「てへっ(≧∇≦)」的な笑いをとるCM
- 最後に「いまなら〇〇貰えるッ!」って言うCM(今だけっぽく言うが、本当はいつでも貰える)
などがあります。
見るたびに「またこのパターンか…」と思ってしまいます。
これらの様なCMを見ると「ああ、製作者は慣習に負けたんだな」と思えて、なんだそのCMが墓標のように見えて悲しくなるのは私だけでしょうか。
はい。私だけですね。自分でも意地が悪いと思います。
まあ、CMの役割としては商品を広く知らしめるためであって、決して前衛的な作品を作ることでは無いですからね。
「安くて分かりやすいCM」というのは、発注者にも説明しやすく、作りやすいのでしょう。作りたいものかは別として。それは理解できます。私もサラリーマンですから。
そういう意味ではペプシの桃太郎のCMは、良くGOが出たなと思います。
ペプシストロング5.0GV 『桃太郎を助けよう!』篇 15秒 | #いざ鬼ヶ島 | 小栗旬 野村周平 サントリー CM - YouTube
このCM、今のところ割と意味不明ですよね。また俳優やCGも豪華で金がかかっていそうです。「高くて分かりにくい」という、安全パイとは対極の内容ですね。
どう着地するのか期待したいです。普段は全く飲まないペプシですが、製作者の応援のために買おうかなと思いました。
他愛もないコラム(その3)
選挙について。
「投票なんてしない。どうせ自分が一票入れなくても結果は変わらないし。」
みたいな事を言う人がいます。まあ、その気持ちは分からなくは無いです。
私は20歳の頃からなぜか投票はほぼ欠かさずに行ってきましたが「自分の一票が反映された〜!!」なんて実感した事は一度もないです。
でも、もし自分の一票が結果に反映されたら逆に怖くない? 自分の一票が日本の、自治体の運命を決めるなんて。
そういう立場になりたいと思うなら立候補した方が早いよ、と言い返します。
あと、誰に投票したら良いか分からないと言う人も多いです。
私だって分からないですし、みんな絶対的な自信があって投票しているわけでは無いでしょう。
もし、絶対的に正しい候補者がいるのであれば、それこそ投票しなくても良いです。みんながその人に入れるのですから。
まずは、何も分からなくても取りあえず投票してみるべきでしょう。どうせあなたの一票なんて結果になんの影響もないんだから、間違っても大丈夫でしよ?(そもそも間違いなんて無いですが)
投票した候補と、選挙結果と、当選後の政治活動を見ていくことで、自分のスタイルとして誰に投票すべきかがなんとなく分かってくるものです。
18歳以上で投票できるようになり、高校で選挙について教えないと!なんて慌てていますが、じゃあ今までは大学で教えてたのか?というと、もちろんそんな事はありません。みんな自分で考えて行動しているのです。
若いうちから投票しましょう。年寄りになってから投票し始めても既得受益者だと批判されるだけですから(笑)
理解出来ないモノを拒絶しない
自分の経験上ですが、「意味分かんねー」とか「これ一体何に使うの?」と疑問に思うようなモノやサービスというものは、大抵はちゃんとした意味や使い道があって、単に自分のスキルや知識が低くて理解できないだけ、ということが多いです。
もしそういうモノに遭遇したとしても、安易に「意味分かんねー」と言って拒絶せず、ちゃんと考えて理解する様にしたいです。それが良いモノかどうかはまた別の話ですが。
最近だと、例えば
とか、
とかですね。
正直に言って、どちらも私には理解できないシロモノです。
こう言う場合に、理解出来ない事を拒絶する事によってなんとなく勝った気になってしまいがちですよね。なんの意味も無いのでやめましょう。
また、流行っているからと言って、勝ち馬に乗った気分で優越感にひたるのもまた、意味が無いのでやめましょう。革新的サービスを利用していると、自分が優秀な人間の様な気になりますが、スゴイのはサービスであって利用者ではありません。
周りに流されて焦って参加する事は良く無いとは思いますが、まずは渦中に飛び込むことでより理解が深まるので、大火傷をしない程度なら良いのかも知れませんね。
ある意味でバクチですが、飛び込む勇気を持つことで道が開けるかも知れません。ダメだと分かったら退く事が出来る範囲なら、ですが。
世の中で「意味わかんねー」と言って笑い飛ばして良いのは、お笑い芸人のネタくらいですかね。
最近あまり見ませんが、お笑い芸人の永野とか全く意味不明なネタですが、TVでボケーっと見てると何と無く笑えてしまいます。
永野オフィシャルブログ「みんな笑顔になあれ」Powered by Ameba
若い人たちにとってはTVは化石の様な古いメディアですが、たまにはお笑い番組見てゲラゲラ笑って息抜きしましょう。
子供の勉強に対する親の注意点十ヶ条
うちの子達はまだ小さい(3歳と1歳)ので少し先の話ですが、小学校にあがり勉強が必要になったら、教育の方針として気を付けたい点がいくつかあるので、備忘録として書いておきます。
- 他者と比較しないこと
- 才能を褒めないこと
- 結果を褒めず、努力を褒めること
- 努力にご褒美を与えること
- 失敗を叱らないこと
- 無理やり勉強させないこと
- 一度の勉強量よりも、継続を重視すること
- 「やれば出来る子」と言わないこと
- 家での態度だけで判断しないこと
- 親が自ら勉強すること
いくつか分かりにくい内容を解説します。
才能を褒めないこと
これは安易に才能に頼らないようにする為です。
才能というものは実にあやふやなもので、小さい頃に努力なしに上手く出来てしまうと、才能に頼りっきりになり、いざ通用しなくなった場合には詰んでしまう可能性があります。
そうならないために、得意な事でも努力を忘れないように育てたいです。
結果を褒めず、努力を褒めること
もしテストで良い点数を取っても、それが努力の結果でなければ褒めないと言う事です。
逆に良い点が取れなくても努力をしたのであれば、褒めるべきです。
「やれば出来る子」と言わないこと
これは、結局はやらないと意味が無いので、言うだけ無駄だからです。
何もしてない子に「あんたはやれば出来る子だよ!」というと、「そうか、俺は出来る子なのか」と謎の優越感を抱かせるだけです。
もし言うなら「まずやらないと何も出来ないよ!」でしょうね。
家での態度だけで判断しないこと
家の中ではダラダラしていても、外(つまり学校や塾)ではマジメな態度で勉強している可能性があるので、総合的に判断する必要があります。
外では頑張って、家では休む事を重視している可能性もありますからね。親としては幅広い目で見る必要があります。
親が自ら勉強すること
当然ですね。親が毎日ビール飲んでテレビ見てたら子供が勉強するはずがありません。
さて、いくつ出来ることやら。これから、妻とも意識合わせをしないといけません。特に10は頑張らなければ( ̄▽ ̄;)
他愛もないコラム(その2)
学生時代に友人がこんなことを言っていた。
「階段ってすごいよな。どこまでも登っていける。考えた人すごい。」
何を馬鹿なと思ったが、考えてみると確かにそうかも、と思い直した。自分の前を少しだけ高くする。こんな単純なことだけで原理的にはどこまでも高く登っていける。人の足でだ。
実際に高い階段を作るにはだいぶ技術と物資が必要なので、突拍子もない高さにはたどり着けない。
でも、自然の階段、つまり山に登れば8000メートル上空にまで人の足でたどり着ける。8000メートルったら、もうちょっとで飛行機の高さ(10,000メートル)ですよ。そんな所まで人の足で。凄すぎる。
もっと気軽な(?)方法もあって、体に大きな風船をたくさん付ければもっと高くへ行ける。実にくだらない方法だけど、本気で挑めば成層圏まで行けるんじゃないか。まあ多分死ぬけど。
技術とすら言えないような簡単な原理で、トンデモない所まで行けると考えると、何故か分からないけど本能的に怖くなってしまう。
ちょっと理由を考えてみだが、たぶん「自然に対する生身の人間の挑戦」だからと思う。
昔、ギリシャのイカロスが蝋で作った鳥の羽で太陽目掛けて飛び立ち、落ちていったように、自然に対する挑戦はことごとく見えない何かによって弾かれるのではないかと思ってしまうのだ。
まあ、自分はそんな無茶なことは絶対にしない(というか出来ない)ので全く関係ないんですけどね。
それをするのが冒険家という人たちで、本当に尊敬します。自分には無理です。
他愛もないコラム(その1)
ものには最初から決まった名前があるのでは無いだろうか? 名付けるという行為は、あらかじめ決められている名前を発掘してあげる事では無いか? などと最近考えています。
例えばツィート(tweet)する、は英訳すると正確には「さえずる」ですが、多分それでは流行らなかったと思います。(あくまでも呼称についてです。サービス自体は便利なので流行ったと思います)
やはり「つぶやく」が正解なのだと。安易な英訳に走らなかった、ちゃんと考えた担当者は偉いな、と思いました。
また「ググる」という言葉も、「グーグルで検索するという行為」があらかじめ持っていた名前が発掘されたものかと思います。
ヤフーは「ヤフる」とはならないので、残念ながらこちらはしっくりくる名前を持ってないようです。
夏目漱石の「夢十夜」で、仁王像を掘る彫刻職人が「木の中に仁王像が埋まっているので、それをノミと槌で掘り出すだけだ。間違うはずがない」と言う場面があります。
たしか小学生の教科書で読んだと思いますが、妙に納得してしまい大人になっても心に残っています。
それと同じで、きっと世の中のモノはあらかじめ持っている名前があり、それを掘り出すのが名付け親の仕事なんだろうな、と考えています。
我が家では子供の名前は、事前にはほとんど考えず、本人が生まれてから顔を見ながら決めました。正直に言うと、あらかじめ考えていた名前も少しはあったけど、結局はそれらは採用せずに、夫婦でジックリ赤子の顔を見て2人ともが「これだ!」と思えた名前をつけました。
字画や意味は考慮せずにインスピレーションだけで決めたので、何故その名前にしたのかと聞かれると説明に困るのが難点ですが、我ながら良い名付け方をしたなと自画自賛しています。
当の本人が気にいるかは、まだ分かりません。